Thoughts

October 2012

12月、3月のコンサート

Moon_resize.jpg今日は素晴らしい秋晴れ。月も異常に美しかった...。

コンサート情報を「インフォメーション・ページ」にアップしました。
ご興味のある方はぜひいらして下さい!

時間

「時間」というものは誰にとっても大きな「課題」のように思う。
「生」や「死」との向き合い方など根源的なものから、芸術においての永遠性/永続性や宇宙やミクロの世界を知る上でも、人は常に「時間」というものを模索しているようにに思う。

最近,と云っても数カ月前からだが、音楽において概念として持っている「時間の流れ」というのは存在しないのだ、という結論に達してしまった。勝手ながら(笑)。少なくとも,真実の音楽には「進む」とか「横に流れる」という時間の流れはないのではないかと思いだしている。

自分が今まで感動したり、凄いと思った演奏というのは正に時間が止まっている中で動いていたように思う。ホールの空気も時間もピタッと止まってしまう感覚に陥る演奏。私たちが慣れ親しんでいる,拍子の規則的な刻みとは関係なく、一つ一つの音が全く自由なのに音楽の辻褄が合っている、完成された音楽。音楽が進めば進む程,音楽の全貌が分かるのではなく、もう既に一つ一つの音の中に完成された音楽が含まれているのだ。そして、そういう演奏は何年経っても忘れない。音なんて実態がないのに、それを忘れないというのは凄い事だと思う。

自分も常に課題となっていたのが、音楽に対しての自分の立ち位置。ブログにも多分前にも書いたような気がします。なかなか答えが出ないので(笑)。
「自分が出したいと思っている音がはっきりと分かっていないといけない。」と云われれば、出す音よりも前に自分の意思を持っていかなきゃいけないし、「自分の出している音を良く聴いて、聴いた音で次をどう弾くかを判断しなきゃ!」といわれれば、出している音よりも後に自分の耳も意識も持っていかないといけない。おまけに音は次から次へと出て来るのだから、自分の意識を前に持っていったり,後ろに持っていったり、と何とも安定感がない。どちらかに徹底しようとしてもどうもしっくりいかない。
 それが、たま〜に弾いていると、あるフレーズだけ妙にハマったりする時がある。これは自然にハマるのだが、どうしてハマるのかがどうしても分からず、他の所に適用する事が出来なかった。そのフレーズの前後はどんなに不安定でも、そのフレーズに来るとなぜかピタッとはまる、不思議な感覚。おまけに録音をしてみると、やはりハマった所だけが妙に完成されている。

それが、ついにこの仕掛けが分かったような気がします。自分にとっては大発見。
この発見を見付ける大きなきっかけがやはり夏に聴いたA君のチェロリサイタル。
彼の演奏から本当に多くの事を学んでいます。
彼がテクニック的に難しい曲を弾いていた時の手の動きに大きなヒントを貰いました。フレーズの中で実際に音を出す前に既に大きく指を動かして、その音が出るべき時には準備万端で全く間違える気配がないのである。音楽の「流れ」からすると、その手の動きはあまりに早くに準備していたように感じたのだが、「実際の音楽」にとっては必要な動きだったのだ。音楽の流れに自分の体が乗っかっているのではなく、彼自身の中で既に完成された音楽が存在していて,舞台に座った彼はチェロの上に指を置いていっているだけのような感じでした。出て来た音は一つ一つが完成されているから、それを繋ぎ合わせたものは流れとは関係なく完成された音楽なのである。


今まで一曲の中で,数カ所だけがまぐれのようにハマっていたものが(残りはとにかく人口的に音楽的になるように作り上げていた)、今面白いように次から次へとハマっていってくれています。
とにかく、陥りがちな音楽の「流れ」に流されないように、「音楽」そのものを見据えられるように今頑張っています。

ピアノの発表会?

友人がまた面白いYoutubeの映像を送ってくれました。
気持ちが分かるだけに、見れば見る程笑えます...。
”ピアノの発表会前なのに...。”

追記:この映像の横に出ていた違う映像でまた面白いものを見付けてしまいました。
それにしてもどうしてこんなに最後までピッタリいけるんだろう..?タイミング合い過ぎ。
スリラー/スーダラ節

ロシア続き

%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3_resize.jpg今年はなぜかロシアに縁があるように思う。
ドストエフスキーの「カラマーゾフ兄弟」,チェーホフの「かもめ」を観劇したり、春のオール・ラフマニノフ・プログラムのコンサート、今練習中のムソルグスキーの「展覧会の絵」。そして、つい昨日、渋谷の文化村で開催されている「レーピン展」に行ってきました。

ムソルグスキーの肖像画を描いているので、それを目的に行って来たのだが、どれもこれも素晴らしい絵で驚いてしまった。このレーピン展はテレビで紹介しているのも観ていたし、ムソルグスキーの肖像画も印刷物で何回も目にしているのだが、実物はやはり全然違う。とにかく一つ一つの絵の深さに引き込まれると云うか、3次元を越えて4次元の世界にまでも行ってしまいそう。風景画の遠近感や奥行き感も凄いのだが、何と云っても肖像画の素晴らしさが際立っている。本当に目の前にその人がいるよう。内面やその人の人生までもが秘められている。普通は同じ画家の絵は、絵の前に立つと、違う題材でも同じ印象を受けるのだが、レーピンは一枚一枚の絵の印象が全く違う。特に肖像画では一人一人違う人と出逢っているような錯覚に陥るだけでなく,描かれている人に異常に興味が湧いて来る。レーピンの洞察力の深さと人間に対しての温かい眼差しに感動しました。

今回の展覧会は今まで観て来た絵画とは全く違う感動の仕方でした。会場も入って,最初の紹介文を読んでいる時に、あまりにも静かなので全然人がいないのだと思い込んでいたのだが、少し歩を進めたらたくさん人がいました(笑)。みなさん、とても静かに、そして深く絵と向き合っていらして(というか絵がそうさせるのだと思うが)会場の雰囲気がとても重々しい感じでした。私はこういう雰囲気が大好きなのだが。

そういえば、ムソルグスキーの肖像画の他にムソルグスキーが「展覧会の絵」を献呈した美術評論家のスターソフの肖像画があったりして、「展覧会の絵」と関係のある絵(人)を今の時期に観れたのはとてもラッキー。他にトルストイの肖像画もあり、レーピンのアトリエを訪れた時にトルストイが絶賛したと云う当時制作途中だった「ゆうべの宴」という絵も本当に素晴らしかった。この「ゆうべの宴」の前でトルストイと同じように自分も時代や国を越えてこの絵の前に立っているかと思うととても感慨深いものがありました。

19世紀後半のロシアは本当に凄い人達が渦巻いていたのですね。レーピンと云う巨匠をこの歳で発見出来て本当に幸せ。ロシアに益々興味が湧いている今日この頃です。

追記:レーピン展は文化村で10月8日まで。ぜひぜひ皆さん観に行って下さい!!!
ちなみにこの展覧会はこの後巡回するらしく、来年の4月に葉山にの美術館に来るとの事。また随分と近くに来てくれるのですね(笑)。

ユーモア

チェーホフの「かもめ」がきっかけでユーモアのについて色々と考えさせらているが、音楽の中のユーモアもかなり色々な形で含まれているように思う。クラシックは宗教や信仰と密接に関係しているので、もちろん曲によるが、ハイドンやモーツァルトなんて結構人を意図的に驚かせたり笑わせたりする要素があちこちに垣間見られる。

ベートーベンは特にそうで、「なくした小銭への怒り」という究極の面白い曲がある。ロンドン時代に一度だけ友人のMちゃんが弾いたのを聴いて一耳惚れ。面白い、というか、なくした1ペニーの小銭を一生懸命探している姿を想像すると、本当におかしくなってくる。未だにMちゃんに「あの曲また弾いて!」とお願いするのだが、「今、もう弾けない!あの曲凄く大変で,あの時は相当頑張った!」という。聴いている方はめちゃくちゃ楽しいのだが、短い曲なのに相当大変らしい。そういう理由からか、凄くいい曲なのに、コンサートでは滅多にお目に掛かれない。残念!

昔,友人のTとやはりベートーベンの最後のソナタ第32番に出て来る、延々と続く付点の付いたようなリズムについて「あれはどういうつもりなんだろうね?」という話になった。音楽的にちょっと軽いと云うか,ポップというか。さすがに弾いている方は厳格に弾くのだが、聴いている方としては真面目に聴くより、やはりノって楽しくなって来るし、楽しく聴かないと逆に滑稽に聴こえて来るような気さえする。「悲愴」や「熱情」、「テンペスト」そして宇宙の果てまでもいっちゃっているような「ハンマークラヴィア」を含む32もあるソナタ群の最後の最後に、このノリのいいリズムが出て来て、また延々と続いているのがとても不思議。友人と、「ベートーベンが本当にロックのようなノリで書いたとしたら凄いよね」という話で終わったように思う。
32曲のソナタの最後の最後でベートーベンは笑っていたのだろうか?どうだろう....。

苦しみや悲しみの多い人生。ユーモアに救われる事って本当に多いように思う。