Thoughts

July 2014

太刀を抜け

数年前の友人との会話。
私: 「ピアノ弾くのは大好きだけど、人前で弾くのはあまり好きじゃないんだよね。」
友人:「じゃ、なんでコンサートするの?」
私: 「上手くなりたいから」(一回のコンサートは練習の何十時間にも匹敵する)
友人:「なんで上手くなりたいの?」
私: 「人を感動させたいから」

矛盾しているこの自分の答えに凄く驚きました。

そして、今になってこのやり取りから当時、自分が凄く間違った道に進んじゃったのが見えています。
まず、人を感動させようと思って作った音楽なんかに人は感動しないのだ。もうここからして大きな勘違い。サービス精神はいいのだが、聴いてくれる人の事に思いが行き過ぎて、音楽から遠く遠くに離れてしまった。音楽とだけ向き合うべきなのに。自分の思いや感情はさておき、とにかく音楽だけが存在しなくてはいけないのだ。やっとそれが見えて来て、まだ完全な形にはなっていないが少しずつ出来つつある手応えがある。そして、自分でもそれが本当の音楽と思えるようになってきたら、人を感動させたい、という傲慢な思いではなく、共有したいとは思うようになって来た。
「人前で」っていうのも何だかその時の心境を映し出しているような気がする。「人前で弾く」というのは好きではなくても、「コンサート」というものは当時でも好きだったように思う。

%E7%82%B9%E6%BB%B4%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB_resize.jpg秋に30分の短いプログラムだが、久しぶりにソロのコンサートがあります。昨日、やっとプログラムも最終的に決めたので、後は練習のみ。この一年半の修業の成果、出てくれるのかな〜。。。とちょっと弱気にもなったりするのだが、最近勇気づけてくれている詩があります。

太刀を抜け
太刀を抜け
今、太刀を抜け
生命の奥座敷に
据えてあるはず

岩崎航さんの五行詩。
今こそなのだ。
ここまでの覚悟を決める勇気が本当に欲しい。


フランスの香り

%E6%88%B8%E5%AE%A4%E3%81%95%E3%82%93_resize.jpg先日、戸室玄さんのランチタイムコンサートを聴きに行って来ました。
戸室さんはフランスにずっと住んでいらして,今度ロンドンに留学するそうだが、そのフランスの雰囲気がもの凄く漂っていて、まず出て来た時にもう既に違う世界に連れて行ってくれてしまいます(笑)。シンプルな黒のスーツと白いシャツなのに、センスが際立っていてとにかく素敵。「フランスの貴公子」と司会の方が云っていらしたけど、まさにぴったりの形容。あれは、本人の生まれながらに持っている品格も出ているんだろうな〜。

演奏もとても深みのある丁寧な音楽作りで、私も本当に身が引き締まる思いでした。「今」の自分とは対極にある音楽のような気がするが、ベートーベンの音の深さや色気のあるリストは本当に楽しませて頂きました。私自身、リストを弾いているといつも「罪な男だな〜」と思うのだが、爽やかな戸室さんもリストを弾いている時は戸室さん自身が「罪な男だな〜」と思ってしまいました(笑)。お客さん、みんなう〜っとりしていたように思う。

色々と素敵なのだが、やはり何と云っても音楽に対する誠実で真っすぐな姿勢が感じられた事が一番の魅力です。これから演奏する機会が増えても、その姿勢はいつまでも変わらないで欲しいな、とつくづく思ってしまいました。


。。。

今日の月は有難かった。
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勝手に

最近、自分はどれくらい本当に自分の音を聞いているんだろうか?という事に焦点を当ていて練習しているのだが、昨日の練習中にどうにか耳と手だけが直結してくれないものか、とつくづく思ってしまった。脳からの指令や邪念が多過ぎて音楽の邪魔をしている事に気付きました。目から入って来る情報さえも邪魔な気がして来て目を閉じて弾く試みもするのだが、ラフマニノフは相当手が跳ぶのでまだまだ勇気が持てなくて、目を閉じたり開いたりで逆に気が散ってしまった。

それが、昨夜寝る前にまた画家の有元利夫さんの本を読んでいたら、その中に右手を痛めた時の話が書いてあってとてもハッとさせられました。右手を痛めたので、左手で色々な事をするようにしていたのだが、意外にも色々と本人も驚くくらいに左手が動いてくれたらしい。しかし、2つ出来なかった事があって、その一つが絵を「描く」事だった。「それまで、自分で大いに脳を使用していたつもりだったのに、そうではないらしい。脳みそはせいぜい部分的な指令ぐらいしか出来なようです。それらの判断たちを総合しつつ展開させ、絵にして行くのはもっぱら,僕の場合、右手のようです。」と書いてありました。

自分も昔、弾きながら手が勝手にフレーズを作ったりして、それが結構良かったりするので「今の、なかなかいいじゃん」なんて思ったりする事もあったのだが、それが最近めっきりなくなってしまっていた。何か、いつも予想のつく展開で、自分で面白くないな〜なんて思ったりして。なので、今日は「手」を信頼して、脳(心?)からの思いや指令を一切排除して手に「全て」を任せようと練習していました。今日は練習が1時間程しか取れなかったのでまだまだ不十分だが、手応えがあって驚く程体のあちこちの力が抜けて音楽が自然に流れていたように思う。これから、ちょっと楽しみ。

鳥肌

先日の齋藤陽道さんとのフォトセッションの写真が送られて来て...。

最初の一枚を開けた途端に鳥肌が立ちました。
今年初めに、観させて頂いた青山アトリゥムでやっていた齋藤さんの写真展の題名が「宝箱」でしたが、一枚一枚ファイル開ける時の気分が正に宝箱を開けているかのよう...。ワクワクドキドキなのに、その期待を裏切らない、それ以上の宝が次から次へと出て来ました。
なんて凄い人だったんだろう。

小さな虫達

%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%AA_resize.jpg今日、玄関の靴の上にメスのクワガタがいて、びっくり。
昨日は布団の合間に1cm程の小さな小さなカマキリが。良かった、気付いて。気付かなかったらあっという間に・・・。

当たり前

先日、お皿洗いをしながら音楽の事を色々と考えていたら、何だかこの色々と考えている事が急にバカらしくなって、空しくなって、そして何だか無性に悲しくなってしまった。あんなに色々と開眼して見えていた筈なのに、録音してみたものを聴いてみたらそれほどの進歩も無い事にがっかりして、「私一人でなにやっているんだろう?」と思ってしまった。一人で喜んだり、興奮したり、沈んだり。今色々と読み返している本は画家だったり、彫刻家だったり、小説家の本で、苦悩している事や創作者としてどうあるべきか、などとても共感する事が多いのだが、クラシック音楽に携わっている自分にとってこれは正しい道なのかを疑問に思い始めてしまった。何も無い所から何かを生み出すのとは根本的な何かが違うのかもしれない。先に完成された音楽があるのだから、自分は勝手に事をややこしてくしてしまっているのではないかと...。

真実(それも何なのか曖昧でたまらない)を追求する事が急に嫌になって、もう何も考えない方がいいのかとも思い出したのだが...。でも、やはりよくよく考えてみたら、バッハやベートーベン、ブラームスのような巨人達の音楽を自分が何も考えなかったり、追求せずに演奏してしまったら、本当に浅はかな独りよがりの音楽になってしまう事にも気付きました。偉大な作曲家達の曲を弾かせて頂いているわけだから、これくらい悩んで当たり前だと思えるようになって来ました。