Writings

梯剛之デビュー10周年記念リサイタル

  • October 15th, 2005 鎌倉芸術館大ホール (鎌倉)
  • 梯剛之 Piano

プログラム・ノート - 海老原みほ

永い永い年月にわたって私は自分の歌を歌った。
しかし私が愛を歌おうとするとそれは哀しみに変わり、
哀しみを歌おうとするとそれは私のために形を変え、愛となった。
これは、シューベルトが1822年7月3日付けの日記に記した自伝的な寓話的物語り『私の夢』からの抜粋である。シューベルトは家族からの期待や世間からのプレッシャーと戦いながらも、自分の人生、そして自分の音楽を切り開き、苦しいながらも『自分の歌』を歌い通したのである。教師になって貰いたいと願う敬愛する父親との不和、巨塔のようにそびえ立つベートーベンと同時代に生きていた事実、作曲家として生き残っていくための出版者との苦々しいやり取りをもってしても、彼が音楽に真実を求める道から外れる事はなかった。そして、常に「真実」を追い求めていたシューベルトの音楽は自然体である。無理がなく、媚びない。そして何とも心優しい。一見(一聴?)地味な印象を与えがちだが、心静かに彼の音楽を聴けば、人間を根底から揺さぶる『愛』と『哀しみ』がそこに存在している事にハッと気付くのである。
作品の長さや、目先の華やかさに欠けた作風で敬遠されがちなシューベルトだが、スローライフが見直されている今の時代はこの作曲家の素晴らしさを再発見するのに格好の時ではないだろうか。

楽興の時 Op.94 D.780 (1823年~1828年作曲)

6つの小品からなる愛らしい作品。俳句のように瞬間的な感情を音符にしたような印象を受ける。6作品とも相当に趣を異にしており、次から次ヘと心の窓を一つ一つ開けては中を覗き見るようである。
第一曲
天から降ってきたようなメロディーが奏でられ、緩やかな音の流れは音楽の 時空『楽興の時』へと聴き手を誘い込む。
第二曲
和音で進行する穏やかな曲。シューベルトならではの和音は、重さを感じさ せず、ピアノ曲ながら混声合唱を思わせる。
第三曲
ロシア風ダンス。リズミカルでユーモアさえ感じさせる。
第四曲
バッハのプレリュードやインベンションを彷佛とさせる。中間部ではシンコ ペーションのリズムに乗せたメロディーが出て来るが、音の流れにしても、リズムにしてもバロック的な硬さはなくシューベルト独特の丸みがある。
第五曲
今までの内省的な4曲とは対照的にそれまで内にためていたエネルギーを一 気に外に向けて爆発させたかのような情熱的な曲。(神経質でありながら、通常心穏やかで謙遜だったシューベルトが公の場で腹を立てたという記録は 数回しかないが、暴れ回る程に激しかったらしい。)
第六曲
遠き日々を回想しているかのごとく、もの悲しさと静けさが同居している。 しかし悲しみの中にも光が見い出され、希望を胸に抱きながらこの「楽興の 時」は静かに終わる。

即興曲Op.90 D.899 (1827年作曲)

4つの小品からなる曲集。即興曲といえども、「楽興の時」とくらべると秩序立っており、自由奔放というよりはそれぞれのテーマを最大限に広げていくという感じである。外枠がしっかりしているだけに聴いていて安心感がある。
第一曲
雷のごとく、霊感に打たれたかのようなオープニングの後に美しい旋律が遠くから聞こえてくる。全体を通してこのメロディは道先案内の役割を果たし、ついには音楽以外ではたどり着け得ない所にまで連れていってくれるのである。
第二曲
第一曲で辿り着いた音楽(至福)の世界ではもうこの世の雑踏は聞こえない。純粋に音と色だけが存在し人間の負の感情と思われがちな怒り、哀しみさえもが美しい音楽となって姿を変えている。
第三曲
無言歌。旋律の一個一個の音が長く、浪々と歌われるこのメロディは、言葉はないにしても、ドイツ語を母国語とする人だからこそ創り得た音楽であろう。母音を強調する必要のない言語の特権である。
第四曲
ピアノという楽器を最大限に生かし、その特徴を楽しんでいるような曲。細かい音を連ねながらも、和声的な響きを楽しませてくれる。中間部では訴えかけるような旋律を容赦ない和音が伴奏をする。全体を通して切実なる情熱が溢れている。

ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D.959 (1828年作曲)

「シューベルトの作品は長い」とよくいわれる。このソナタも確かに4楽章からなる40分近い曲であるが、長く『感じる』のは時間的な長さからだけくるものではない。
リート(歌曲)を600以上書いているシューベルトは、メロディーのアイデアに欠けていた訳ではなかったであろうに、これでもかと云う程に一つのメロディーを使って和音や調性、リズム、音域を変えながら、時間をたっぷりとかけるのである。その上、盛り上がりがどこにあるのかが分かりづらく、どこに向かっているのかも曖昧なために永遠に終わりそうにない気さえしてくる。(シューマンがシューベルトの作品について『天国的に長い』といっているが、「天国=永遠」と云う考えのもとに使った表現と思われる。)しかしこれは音楽の方向性が高みや深みを目標とした物ではなく、遠くへ遠くへと私達を導いていく意図があり、信頼してどこまでもついていく気になった時にこそ、シューベルトの道が見えてくるのである。 ジェットコースターのような息を呑むような派手な展開はないにしても、心の隅々までもを満足させる一大ドラマがここには内在している。威厳に満ちた主張のある一楽章、狂気と正気の間をさまよっているような幻想曲風のニ楽章、軽やかさと力強さを兼ね備えた遊び心溢れる三楽章、そして淡々と進みながらも燃えたぎるような情熱が奥底に感じられる四楽章。シューベルトが孤独のうちに『自分の歌を歌い続けた』からこそ辿り着いた美しい世界が私達の前に広がっていくのである。