Thoughts

July 2011

ボランティア活動:釜石;6月24日

朝5:00起床。出発が早いので少し早めに。まだ寝ている方もいるので静かに身支度。

6:00に最後の食事。ついこの前、食事の仕方を教わったばかりだったのに、もうここを去ってしまうのが何だか寂しい。

皆さんにお礼のご挨拶を一回りして、皆さんに見送られながら6:30に出発。他に仙台までバスで行かれる方二人と一緒に車に乗せて頂きました。

バスの出発時間の方が30分程早いので,バス停で少し最後のおしゃべり。が、二人が去った後、不覚にも車の中に荷物を一個置き忘れてしまっていた事に気付きました。急いでタクシーに乗り、ベースキャンプに戻りました。せっかく見送って下さったのに、再び戻るのはさすがに恥ずかしかったけど、「また会えて良かった。」と云ってくれて、その言葉にまた嬉しくなりました。

駅に帰る途中でタクシーの運転手さんが「さっき教会行くのに迷ったから」と
メーターを止めてしまいました。今、大変な時なのにおまけしている場合じゃないでしょう!と思ってしまったけど、どうしても折れてくれないので、おまけしてもらってしまいました。

駅に着いて、少し離れたコンビニに寄って水と新聞を。駅の方に戻ると、着いた日にタクシーに乗せてくれた運転手さんとさっき乗せてくれた運転手さんが仲良く並んでずっと手を振ってくれていました。何だか、最後の最後まで人の温かさに包まれた釜石滞在となりました。

今回、釜石に行くまで様々な不安があり、現地がどのような状態なのかが全く想像出来なかっただけに相当の覚悟を持って行きました。しかし、私が行ったベースキャンプは3月からは時間が少し経っているので生活自体に全く不自由はなく、一日の活動も無理のないように考えてくれています。

津波による惨状はやはり見ておくべきだと思います。「体感」する事によってそれはもう他人事ではなくなり、そして忘れる事がないからです。今も避難所で釜石や仙台の美しさを自慢げに話して下さったおばあちゃんの事や若いのに同級生を5人も亡くされた方、そして大槌町で一緒に作業したMさんの事をよく思い出します。時間は掛かるだろうけれど、いつかまた笑顔いっぱいで会えるように、と祈っています。

被災地では色々と悲しい面もたくさん見て来ましたが、しかしそれよりも本来の人間の素晴らしさを発見する事が出来、その印象の方がよっぽど強いです。人と人とが一緒にいる、そこに存在するもの自体が本当に素晴らしい。この素晴らしさが復興の力になるんだ、と確信を持って帰って来る事が出来ました。

たくさんの思いを持って、今は次のコンサートに向けて頑張っています。
明日からヨーロッパに行って来ます。今回は結構長旅で色々な人に会うので、東北で見て来た事、感じた事を伝えられたらいいな、と思っています。

ボランティア活動:釜石:6月24日

朝6:00起床。寝袋での雑魚寝にも慣れて来て、大分寝れるようになって来た。
昨日神父様が帰っていらして、朝御ミサをあげて下さるという事で、朝食はその後に。
6:30から二階の聖堂で御ミサ。
7:10〜朝食。お弁当のおにぎりもまた作って。
7:45ミーティング。前日は「心のケア」で避難所に行っていたために夜のミーティングに出れなかったので、作業を選ぶ事が出来ませんでした。なので、残った所に名前を書きました。大槌公民館での写真の洗浄、分類。本当は色々な活動をしてみたい、現場を見てみたいと思っていたので少し残念でしたが、違う場所が見れるので良かった、と思いました。

8:00掃除。「今日は置いてきぼりにはならないぞ!」と解散と同時に自分もダッシュ。お風呂場に一目散に向かって行きました。やっとお掃除らしいお掃除が出来て、一安心。後から考えたら、みんなやはりそれぞれ初めての時に「置いてかれてしまった。次回は置いてかれてはいけない」と思うからあんなに凄い勢いで散るのかな、と思ったり。初めて来た人はやはりちょっとびっくりだと思います。

9:20にHさんと二人でベースキャンプを出発。ボランティアセンターに登録に行かずに、直接現地へ。大槌町の凄い被害を横目にYさんから作業の事を色々と聞きました。「あの写真の作業は最初は大丈夫なんだけど、30分くらいすると精神的に相当きついです...。」と云っていました。自分も前日に若い男の人のアルバム一冊に殆ど一日掛けていたのだが、やはり色々と思いながらの作業です。髪型や服装から「この人は今何歳くらいかな〜」とかグループで写っている写真が多かったので「この人はきっといい友達がいっぱいいたんだろうな〜」とか、一人で写っている女の子の写真もあって「彼女だったのかな〜」とか。そして、やはり最後は「この人はこのアルバムを取りに来てくれるんだろうか?」とか...。

行きにコンビニに寄ったので、地元の新聞を買いました。やはり現地の新聞は視点が全然違います。まだまだ津波の影響は現在進行形です。

10:00前に作業をする大槌公民館に到着。
公民館の前に他のボランティア団体の張ったテントにきれいにした写真が並べてあったり、壁に貼ってあったり。私たちの作業は、持ち込まれた写真をきれいにして、それぞれに赤ちゃん、乳幼児、幼稚園、小学校、中学/高校、成人(20代〜50代)、60代以降、成人式、結婚式、グループ写真、風景、白黒写真に分けて探し易いようにファイルして行きます。

ボランティア活動:釜石;6月23日

%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%A1%A8_resize.jpg朝5時起床。前日に早く寝ているのと緊張しているせいで自然に目が覚めました。外は雨。

6時に食事。和食も洋食も揃った充実した朝食。食後は作業場にもって行くおにぎりを作って。

朝のミーティングの時間まで荷物の整理をしていたら、大きな地震が。津波の後を目の当たりにしているだけに、前とは違う緊張感が走る。津波警報のサイレンも鳴り、不安を仰ぐ。しかし、次第に警報も解除され、心配もなくなる。

朝のミーティングで今日の作業の確認。雨で作業変更も。神父様が最後にお祈りをして下さり、皆を送り出して下さいます。

解散後それぞれの出発時間までベース内の掃除。皆、あっと云う間に散って、てきぱきと掃除機を掛けたり、トイレの掃除をしたり、ゴミをまとめたり。。。掃除用具があっという間になくなってしまい、何だか置いてきぼりに。。。シスターに「掃除する所がないんだったら、ここら辺の物を片付けたりして」と云われ、大した事をしていないのだが、忙しく掃除をしている振りにだけなってしまったような気がしてしまいました。

8:10にベースキャンプを出発。本当は出発前に夜に避難所に行く「心のケア」の人に自分も行きたい事を伝えたかったのだが、担当の方が見当たらなかったので、断念。

YさんとKさんの車に乗せて頂きました。まずは釜石駅近くにある釜石ボランティアセンターに。他の5人と合流してここでその日のボランティアの登録をします。ワッペンを貼って頂き、保険もここで加入。

%E6%A9%8B%E9%87%8E%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%91_resize.jpgここからはKさんと二人で車で作業場の橋野小中学校まで。海沿いの道もたくさん走るので、津波の後の光景を見ながらの移動。北海道からいらしていたKさんとは色々とここに来るまでの不安や着いてから色々と思った事を共有出来て大分心が軽くなりました。

作業場の橋野小中学校は山の中にある廃校。津波跡から拾われた写真を洗浄する作業です。入った時にアルバム、写真の多さに圧倒されました。アルバムは腐食していたり、まだ湿っていたりするので、室内は空気が悪く、マスクと軍手をしての作業。

%E6%A9%8B%E9%87%8E%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%92_resize.jpgアルバムから一つ一つ写真を剥がし、砂をブラシで払い、除菌ティッシュで腐食を起こしているバクテリアを取り除き、乾かしてきれいなアルバムに入れて行きます。
作業をしている同じ場所にはまだ、これからきれいにしなくてはいけないアルバム、きれいにしたアルバムが長机にズラーッと並べられていて、作業している横で人が写真を探しに来ます。なので、作業もとても気を使います。指導して下さったYさんは「判明出来なくなってしまった物はそ〜っと捨てて下さい」と皆に説明していました。

作業は結構、皆話さずに黙々としています。
写真を一つ一つきれいにする作業をしながらも、探しに来ていらした方を見ても色々と思う事が。60代くらいのご夫婦はずっと奥様がご主人様のシャツの裾をにぎったまま一つ一つを二人でじっくりと探していました。一人でいらしたご年配の方は、校舎に飾ってあったお孫さんの写真を見付けられて、作業している私たちに「全国大会で記録を出したんだ。」ととても嬉しそうに話していました。皆、手を止めて一生懸命に耳を傾けていました。
おじいさんが帰られてから「あの子が生きているといいね」と...。

%E6%BB%9D_resize.jpg
お昼は近くの休憩所に6人で(他のボランテイア・グループも合流していたので)。水車がある場所で周りの自然が本当にきれい。山の緑が清々しく、滝もあって本当に美しい。「癒されるよね」と皆口々に。

午後も数時間作業して午後3時前に引き上げ、帰りはまたYさんとKさんと3人で。YさんとKさん、二人一緒になるとなんだか漫才をやっているみたいで、私は終止後部座席で笑っていました。二人のハイテンションも自分の笑いも何だか止まらなくなってしまうのは、この深刻な状況の反動なのかな〜...。

釜石のボランティアセンターに戻り、作業報告をして4時過ぎにベースキャンプに戻って来ました。

港に行きたいと思っていたのだが、「銭湯に早く行っておいで」と云われ、銭湯優先になってしまいました。帰って来ても、やはり港に行きたいと思い、Yさんに云ったら「じゃ、X君に車で連れってもらいな」と云って下さり、車で連れて行って下さる事になりました。(前日に歩いて行こうと思ったら、周りが全て瓦礫で人っこ一人歩いていないので、さすがにちょっと怖くなって途中で引き返してしまいました。)

瓦礫を相当見て来たが、さすがに陸に乗り上げた巨大なタンカーはショッキングです。というか、どういう風に感じているのかも分からなくなってしまいます。X君が色々な事を説明して下さったので一緒に行けて本当に感謝でした。途中で見た事もないような凄いカメラを持ち出したので、「凄いカメラだね」と驚きのあまり云ったら「俺、カメラマンなんです」と。カメラマンはどういう気持ちでこういう場所を撮るのだろう...。それにしても、ズタズタになった魚市場の目の前には緑の山々が広がり、霧が掛かっていて、海もとっても静かで荘厳な感じで美しいと思ってしまえます。起こってしまった事とこの目の前の風景のギャップが本当に悲しい。

6時15分頃にベースキャンプに戻り、お皿に夕食を取っていたら「今日、心のケアで避難所に行きたいって云ってなかったっけ?」と云われ「何時から?」と訊いたら「6時半だよ!」と云われ「え〜っ!もう間に合わないかも!」と云ったら「かき込んで行けば間に合うよ!」とあっさり云われ、5分で食べて、出掛けて行きました。


ボランティア活動:釜石:6月22日

6月22日。鎌倉も梅雨の中休みで久しぶりにくっきり晴れて、気温も朝から相当高い。

午前10時前の横須賀線に乗る予定なので、現地に持って行くタンパク質(焼豚)を買いに、いつも行っている近くのお肉屋さんに9時に行ってシャッターが開くのを待ちました。もう、待っている時点で暑くて汗がじわじわ。大量の焼豚をお願いしたら、「何に使うの?」と訊かれたので「これから被災地に持って行く」と話したら少しおまけしてくれました。「気を付けて行って来てね」と送られました。

鎌倉から東京まで1時間。東京から新幹線で新花巻まで3時間強。福島を通る時は悲しみとあらゆる思いが交錯する複雑な思いで窓から見える風景を見ていました。

新花巻からさらにJR釜石線に乗り換えるのだが、乗り換え時間が7分。すでに新幹線に3時間以上乗っているので、駅で水でも買おうと思っていたが、とんでもない。ホームが離れている上に、階段が相当ありました。駅員さんに「急いで下さ〜い!」と追い立てられ、自分と同じような大荷物を抱えた人、数人がみな荷物を階段で上り下りするのに苦戦しながら、なんとか間に合いました。

この釜石線に乗ってさらに2時間強。2両編成のかわいい電車。それにしても普通だったら数人しか乗らないだろうこの電車も、色々な人が乗っていました。あきらかにボランティアの人(大荷物で分かる)やそれぞれに作業着に身を包んだ方、それから、外国の方も乗っていました。話をし出した方はフィリピンの方で、「災害時における社会的変化について」の研究と共にボランティアにいらしたそう。前に座っていた3人の東京レスキュー隊の人達はず〜っとコピーしてある資料を読んでいましたが、その中に「基礎的フランス語」のような小冊子もあって、きっと現地でフランス人と一緒に働くんだろうな〜と想像していました。
多くの人は「遠野」という駅で降りていました。後で訊いてみた所、終点の釜石は宿泊施設が殆どないために多くのボランテイアや作業に来ている人はこの遠野から通うそうです。

%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%81%86%EF%BC%92_resize.jpg釜石で降りるまで、電車の中で色々な人が声を掛けてくれました。「旅行で来たの?」と訊かれ「ボランティアで来ました」というと皆さん「私たちのためにわざわざ来てくれてありがとう」と云って下さいました。緊張しているせいか、その云って下さっている方の事を思うせいか、この一言にも、うるうる来てしまいます。

釜石までの電車の窓から見える風景は本当に手つかずの自然が広がっていて本当にきれいでした。この風景がいつ変わるのかと、どこから地震の被害が見えて来るのだろうか、とずっと身構えていたのだが、ついに着くまで地震の気配を感じる風景は見ませんでした。建物は何もダメージがないままに普通に建っていました。駅もそうです。駅には売店もあり、そして駅のそばにはローソンのコンビにまであって、何もない事を想定していただけにちょっと安心しました。

しかし、ベースキャンプに向かってタクシーで2〜3分も乗らないうちに、急に風景は一変します。こんなにもこの境界線ははっきりしているのか、と本当に胸が詰まります。商店街は一階部分が全部やられていて、めちゃくちゃな状態。瓦礫しか残っていない所もたくさんありました。テレビで見るのと、実際に自分の目の前にそれが延々と存在しているのでは全然感じ方が違います。体中がそれを体感してしまいます。

タクシーの運転手さんに「遠くから来てくれてありがとう。気を付けてね」と送られ、ベースキャンプの釜石カトリック教会に着きました。

電話でお話ししたIさんが迎え入れて下さり、その後はシスターが30分のオリエンテーションをして下さいました。建物内を案内して下さり、一日のタイムテーブルや食事の仕方の説明、作業の時に必ず身に付けるベストや腕章、名札等を渡して下さいました。

この時は、皆さん既に作業から帰って来た後の自由時間でした。皆、何だか我が家のように勝手が分かっていて、勝手気ままにやっている感じです。気さくに声を掛けて下さった方もいたが、こちらは急に予期していなかった疎外感を感じてしまいました。急にこれから過ごす数日間が不安になって来てしまいました...。

釜石:行くまでの不安

%E9%87%9C%E7%9F%B3%E5%B1%B1_resize.jpg6月末に行った岩手県釜石で過ごした時間の事を少し書こうと思います。

3月に地震があってからずっと被災地で何か出来る事をしたいと思いながら、なかなかどうやったら行けるのか分からずに悶々としていました。しかし、6月初めにいつも行っているカトリック教会の青年会が被災地でのボランティア募集のチラシを配っていて、これでやっと行ける糸口を見付けた、と思いました。ちょうど仕事の具合でチラシをもらった3日後に行けると思ったのだが、買い揃えなくてはいけない物があったり、中心となっている仙台のボランティアセンターには最低一週間前には登録しなくてはいけない事も分かり、その週に行くのは断念せざるをえませんでした。

仕事の関係で次に行けるのは6月の3週目。ずっと行くつもりでコンサートのための練習もとにかく繰り上げて早めに早めに詰めてするようにしていました。しかし、チラシを頂いた当初はあんなに行く事を即決出来たのに、時間が出来てしまうと、心配や不安もいっぱい出て来てしまいました。「健康ではあるけど、体力にそこまで自信がないので、ただのお荷物になってしまうのではないか?7月にコンサートがあるのに、こんな時に怪我や病気をしたら無責任なのではないか?逆にコンサートの責任を果たすために行かないのもどうなのだろうか?」などなど...。その上に実際問題として、水道、電気、ガスは通っている事が分かっていても、実際に飲食に使える水なのかどうか、下水は通っているのか、銭湯はあるが水も時間も節約しなくてはいけないのだったら、今長くなっている髪を切って行くべきなのか?まで、ありとあらゆる心配が浮上。こんな事を一日中心配して行くのを迷ってしまっていたのだが、自分にあきれて、「こんなに悩んでいるんだったら、思い切ってもう行くべき」と思い、行く事に決めました。

何事にも準備万端でいたい方なので、行くと決めてからも色々と心配はあり、結局荷物もやけに多くなってしまった。従妹が寝袋をわざわざ届けに来てくれたり、新宿の行った事のないような場所にまで、作業に使うものを買いに行ったりで、とにかく行くまで、準備(心の準備も含め)に振り回されました。自己完結が鉄則のボランティア。自己完結するのにこんなに物がいるんだ、と改めてびっくりしてしまいます。「ご飯とお味噌汁は提供、おかずになるものを持参して下さい」と書いてあったので、作業に出た時のお昼の食料等も詰め込んだ上にベースキャンプに問い合わせた時に「何か必要なものがあれば持って行きますが」とお聞きしたら「必要な物は全部あるのよね。。。強いて云えばタンパク質があまり手に入らないから、鶏肉とか。」と云われ、クールボックスで運ぶにしても生肉はさすがに怖いので(鎌倉から釜石まで電車で6時間半以上)近くのお肉屋さんの焼豚を30人分程持って行きました。

朝九時過ぎに出て、釜石のベースキャンプに着いたのは4時半過ぎ。
着いた途端に「随分、荷物多いね。」と云われました(笑)。
ベースキャンプは結局、もう既に相当充実していて、全てが普通に機能。節電、節水の気配もないので、鎌倉にいる時よりも快適なくらい。こんなだったら、あんなに心配する事も荷物も必要なかった。行く前の現地の情報がとにかく少なかった。(このブログも、これからボランティアに行こうと思っている方の参考に少しでもなれば、と思って書いています)

%E9%87%9C%E7%9F%B3%E7%93%A6%E7%A4%AB%EF%BC%91_resize.jpgしかし、ベースキャンプになっている教会の数十メートル先は瓦礫やめちゃくちゃになった家が延々と続いています。教会も浸水したそうだが、この津波との一線が大きな分かれ目となっていて本当に痛々しい。

これから東北での事を少しブログに書いていこうと思っていますが、結果を云うと、私は東北からたくさんの希望を持って帰って来ました。それは、これからの復興に対しての希望や人間の未来に対しての希望です。延々と広がる瓦礫の光景や避難所で接した方達の事を思うと本当に心が痛むのだが、それにも増して、出逢ったあらやる人の温かさ、心のきれいさに感動する事が多く、本当に人の心って素晴らしい、凄い、って今までの自分の「人間」というものを見る目が完全に変わりました。

%E5%A4%A7%E6%A7%8C%E7%94%BA_resize.jpg

写真上:JR釜石線で釜石に向かう時の車窓から見える山々。自然が美しい。
写真中:ベースキャンプから歩いて1〜2分の光景。
写真下:作業にをしに行った大槌町。右奥に海が見える。左奥まで津波の爪痕が...。

祈るだけでは...。

ブログが地震関係のものばかりになってしまっているのが気になるが、やはり今回の地震は私たちがこれからどう生きるかと云う、人間としてつくづく考えさせられる出来事だったように思う。自分は音楽家である前に人間であって、どう生きるかを問われているような気がしてなりません。この地震/原発事故は自分の心に相当な衝撃を与え、生活や考え方、そして徐々に自分の音楽も変化して行っているように思う。

Tanker%20Head_resize.jpg前回のブログで「なぜ自分は生き残っているのか」と麿赤児さんが書いていた記事を載せましたが、自分が行っている教会でも神父様がお説教の中で同じような事を話していました。「なぜ、あんなに大勢の人達が亡くなったのに、自分は生きているのか?」その答えは出ないけれども、生きている自分に与えられている時間は大切に使わなくてはいけない、というような事を仰っていました。

地震があってすぐにでも現地に行きたいと思いつつ、そんな事が出来るはずはなく、その時にあった自分の選択肢はあまりに少なかった。しかし、今は色々とボランティア活動の窓口が出来た事で現地で何か出来る機会が出て来ました。

ブログにはあまり書いていないが、6月はずっと7月と10月にあるコンサートのための練習や準備、そして生徒のレッスンに忙しいながらも、どうしてもやはり現地に行きたいと思い、6月の末に4日間だけ、被災地の釜石に行ってボランティア活動をさせて頂きました。行く前はやたらと色々な不安があって、相当緊張して行ったのだが、向こうで過ごした時間は本当に充実したもので、人間の素晴らしさに感動する事が本当に多かった。津波の被害はメディアを通して見たり感じたりするよりもずっと広大で想像をはるかに越えるものでしたが、それにも増して、人々が本来持っている心のきれいさを目の当たりにしたおかげで、復興への大きな希望を持って、帰って来る事が出来ました。
Tanker_resize.jpg

祈るために踊る

少し時間が遡るが地震のあった直後にニューヨークでリサイタルをしたものの、本当にあのコンサートはするべきだったのか、と考えさせられました。コンサートの主催側は「大変な時期だから無理しなくていいよ」と云って下さったが、自分としては様々な思いがあり、色々と考えた末に結局キャンセルせずにする事にしました。今振り返ると、自分でも混乱状態だったように思うが、何か「弾かなくてはいけない」というかき立てられる思いもあり、それに対して罪悪感さえも持っていました。

しかし先日、震災直後に載った新聞の記事を送って下さった方がいて、自分のあの当時の感情を何となく理解する事が出来て救われた思いです。

舞踏家の麿赤児さんが書いたもの(抜粋)です。


『こういうことを目の前にすると、人間、ぼけっとするしかないもんだなあと思う。いつかこういう地震が来るとは思っていた。でも、いざ来てしまうと、現実のほうが想像をはるか超えてしまっていた。

死や自然災害など、どうしようもないものに対する恐怖と折り合いをつけるために、宗教や芸術というものがある。自然に対する人間の漠然たるセンサーが感知したものを、言葉に変換することなく、そのまま出すのが踊りや音楽。踊り手は皮膚感覚で世界とダイレクトにつながっている。死ぬまで赤子でいられることが俺たちの特権なんだ。その特権と引き換えに、生贄となり、目に見えぬ何かに踊りを献上する。大げさに言えばそれも星の営みの一部なんだと思う。

つまりは純粋な鎮魂の気持ちを、自粛って方向で、ひょいって簡単に解決されちゃうのが面白くねえんだ。なぜ東北の人たちがあんなに死んでオレが生き残ったんだ、何をすればいい、わからない、っていう迷いを持ち続け、ひとりひとりが己なりのやり方を探すのが「悼む」ってことじゃないのかな。

原発を見ていると、太陽に向かって、蝋の翼で飛んでいくイカロスを思い出す。手にしてしまった便利さを手放せず、もっともっと、と破滅に至るまで欲望を肥大化させてゆく。これもまた、人間の業なのだろうか。

震災は被災地の遠くにいる人たちの胸にも深く矢を突き刺した。日本人みんなで十字架を背負ったんだ。だからこそ、心を癒す花が求められる。

オレたちは淡々と踊り続けるよ。死や自然を畏れて祈り、祈るために踊るしかないんだ。』

entries

categories

archives