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祈るために踊る

少し時間が遡るが地震のあった直後にニューヨークでリサイタルをしたものの、本当にあのコンサートはするべきだったのか、と考えさせられました。コンサートの主催側は「大変な時期だから無理しなくていいよ」と云って下さったが、自分としては様々な思いがあり、色々と考えた末に結局キャンセルせずにする事にしました。今振り返ると、自分でも混乱状態だったように思うが、何か「弾かなくてはいけない」というかき立てられる思いもあり、それに対して罪悪感さえも持っていました。

しかし先日、震災直後に載った新聞の記事を送って下さった方がいて、自分のあの当時の感情を何となく理解する事が出来て救われた思いです。

舞踏家の麿赤児さんが書いたもの(抜粋)です。


『こういうことを目の前にすると、人間、ぼけっとするしかないもんだなあと思う。いつかこういう地震が来るとは思っていた。でも、いざ来てしまうと、現実のほうが想像をはるか超えてしまっていた。

死や自然災害など、どうしようもないものに対する恐怖と折り合いをつけるために、宗教や芸術というものがある。自然に対する人間の漠然たるセンサーが感知したものを、言葉に変換することなく、そのまま出すのが踊りや音楽。踊り手は皮膚感覚で世界とダイレクトにつながっている。死ぬまで赤子でいられることが俺たちの特権なんだ。その特権と引き換えに、生贄となり、目に見えぬ何かに踊りを献上する。大げさに言えばそれも星の営みの一部なんだと思う。

つまりは純粋な鎮魂の気持ちを、自粛って方向で、ひょいって簡単に解決されちゃうのが面白くねえんだ。なぜ東北の人たちがあんなに死んでオレが生き残ったんだ、何をすればいい、わからない、っていう迷いを持ち続け、ひとりひとりが己なりのやり方を探すのが「悼む」ってことじゃないのかな。

原発を見ていると、太陽に向かって、蝋の翼で飛んでいくイカロスを思い出す。手にしてしまった便利さを手放せず、もっともっと、と破滅に至るまで欲望を肥大化させてゆく。これもまた、人間の業なのだろうか。

震災は被災地の遠くにいる人たちの胸にも深く矢を突き刺した。日本人みんなで十字架を背負ったんだ。だからこそ、心を癒す花が求められる。

オレたちは淡々と踊り続けるよ。死や自然を畏れて祈り、祈るために踊るしかないんだ。』

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