Thoughts

色々と...

なかなか春になってくれないせいか、精神的に少し引きこもりがちになっているような気がしないでもない...。昨年から引き続き色々と考えさせられている事が発展していて、大きな発見が色々とある。発見があるのは嬉しい事だが、発見したもの自体が落ち込みの原因になっている事もあったりして、複雑な思い。

ネガティブな発見は書いてもあまり気持ちよくないので、ポジティブな発見を少し。

今年に入って自分の演奏の事で落ち込む事が多く、「自分が演奏している意味が本当にあるのか」と考えさせられている。今までは音楽を通して「これが伝えたい!」という思いが強くて演奏していたが、その思いを伝えきれる演奏を全然出来ていないのではないかと悩んでしまっている。音楽のいいところは人と比べなくてもそれぞれの個性が尊重される所だが、私が演奏している意味が自分にとってもあるのか分からなくなってしまった。

こんな風に色々と思っている事をヨーロッパやアメリカに住んでいる友人達にメールや電話で話しているので、本当に親身になって色々と助言してくれて、支えてくれています。

イタリア人の友人。音楽的な事だけではなく人生の転機の時期でもあると思っているので、今までの自分を振り返り、そしてこれからどうするべきなのか、を色々と悩んでいる事を話したら、古代ギリシアの詩人Pindaroの言葉を教えてくれました。”"O my soul, do not desire the immortal life, but exhaust the field of possible '「我が魂よ。永遠の命を求めるのではなく、自分の全ての可能性を使い果たせよ」というような内容です。「怖がらないで、やりたい事をやってみて。」という事が云いたかったのだと思うが、今ひとつまだ何をしたいのかはっきりしていなかったので何となくまだもやもやとしていました。

昨日はベルギーに住んでいる友人からのメール。彼もピアニストなので同じようなような悩みを何回か経験しているらしい(笑)。彼が「素晴らしいピアニストはいくらでもいるんだから、自分は弾いている意味があるのだろうか?」と自分の先生に話した所、「私たちは音楽と云う大きな大河の一部で一人一人がその流れを作り出しているんだ」と云われたそうです。また「僕たちにとっては音楽はもう魂の一部なんだから選択はもう出来ないんだよ」とも書いてありました。本当にこのメールには勇気づけられました。

そして、先日、たまたまイースターのお祝いを云おうと思ってイギリスの友人の所にスカイプ電話を掛けた所、日本からイギリス留学しているチェリストのA君も遊びに来ていました。A君はまだ10代ながらも既に精神は音楽家。最近受けに行った講習会の話をしてくれたが、それが実に今の自分にとってはつくづく考えさせられる事だった。ある教授がとにかく素晴らしくて感激していたのだが、彼に云われたのが「何がしたいの?」という事だったらしい。これは単純な事なようだが、実は一番難しい。自分が目の前の楽譜を見て、何がしたいかはっきりしたらこれは演奏が80%出来上がったようなもの。しかし、この「何がしたい」というのが意外とくせもので、意外と分からないのだ。おまけに周りに魅力的に上手に弾く人がいるとそれになびいてしまうし、「こう弾くと音楽的に聴こえる」とか「こう弾くと美しい」というコツみたいなものは長年弾いていると自然とやってしまうのであまり追求せずに曲が出来上がったような錯覚に陥りやすい。

A君が話していてもう一つ心に残って色々と考えていたのが、「バッハは自分が弾いている時は難しくてそう云う事がないんだけど、誰かが弾いているのが聴こえて来ると気持ちがいい」という言葉と「バッハをどう弾いたら人を感動させられるのかが難しい」という言葉。

これらを色々と考えているうちに考えがまとまって来ました。まず「自分は何をしたいのか」という事だがやはり自分自身が感動する音楽をしたい。A君がいっていた「気持ちがいい」というのは音楽家にとっては「感動」なんだと自分なりに解釈している。人が何で感動するのかは分かる訳ではないので、まずは自分が感動するものを音楽から探しださなくてはならない。音楽的に弾いたり、きれいに弾く事も必要だが、実はそれだけでは「感動」はしない。この作業が意外と大変。一個一個の音から感動する要素を探さなくてはいけないので、本当に地道な作業。しかし、辛抱強く探せば見付かるのだから音楽って本当に凄いな〜と思ってしまう。

私の大学時代を知っている友人が「えびちゃんはブラームスの最初の一音を作り出すのに3週間掛ける人なんだよね〜」とよくからかうのだが(笑)、今思うとあれは自分でも感動する音を探し出していたんだな〜と納得がいく。ブラームスだけはきっと感動出来る音が自分の中で見付かると信じていたから探し求めていたように思う。

よく仏師が木の中に既に存在している仏像を「掘り出す」というが、その感覚に似ているような気がする。作曲家の武満徹さんも「宇宙に既に存在している音を取り出して曲にしている」いうような事をいっていたが、魂が感動(感じて動く)している時に仏像が見えたり、曲が聴こえたりするのではないのだろうか。

私も自分の演奏に意味はあるかは分からないが、楽譜を目前にしてピアノで音を探して追求すれば感動はする。今はとりあえず自分の中の感動を追求していこうと思う。先に何があるのかは今の所見えていないが、自分自身の魂が感動する音楽を演奏出来れば、それはそれで価値があるかもしれない。

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