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ニューヨークでのリサイタル Ⅱ:プログラム変更 

ニューヨークに経つ2週間程前にコンサートの全プログラムを友人のMちゃんに聴いてもらいました。ちょうど地震の前日でした。モーツアルトのキラキラ星変奏曲、シューベルトの即興曲、ベートーベンの熱情ソナタ、後半がオール・リストで「忘れられたワルツ」「葬送」「コンソレーション」そして「メフィスト・ワルツ」でした。時間的には前半後半共に40分以上のフルリサイタル・プログラムでした。Mちゃんのアドバイスがまた的確で気付かなかった事を色々と気付かされたり、一つの事にこだわり過ぎてしまっていたために違う方向に行ってしまっていた音楽を引き戻すきっかけになったり、作曲家や曲自体の個性をそれぞれに話し合う事で自分のやりたい事を再認識すると共に自分の足りない所をどのようにしたら改善出来るかを色々と発見出来ました。コンサートまでは2週間あるので、改善出来る時間は十分。最後のラスト・スパートは大変ながら、充実もする時期です。

張り切って最後の追い込みを、と思っている時に地震。
予定通りにはいかなかったけれでも、自分に出来る事は最後まであきらめずにコンサートまでやったつもりです。

予定通りにいかなかったのはしかし練習だけではありませんでした。
プログラムの中のリスト作曲の「葬送」。コンサートには乗せた事はなかったが今まで何回か先生と共に勉強した好きな曲で、今回楽しみな曲の一つでした。(実はMちゃんが一番褒めてくれた曲でもありました...。)

しかし、ニューヨークに発つ前の金曜日(コンサートの8日前)から急にこの曲が弾けなくなりました。左手の単音の低音で大きな音で始まるのだが、どうしても身体に拒否反応が出てしまい、どうしても身体がその最初の音を出したがらないのです。
地震のニュースで「死」というものがあまりにも近くにたくさんあり過ぎた事、そして相反するのだが、曲の内容が自分の体感している「死」とあまりにかけ離れていてとても欺瞞的に感じてしまっていたのだと思います。後から調べたら、この「葬送」は革命で亡くなった友人達を悼んで書いたらしいので、あの時期の私には何か英雄的すぎる感じがしたのかもしれない。

そしてもう一つ引っ掛かってしまったのが、地震から一週間が過ぎた時に黙祷を捧げるニュースの中で、行方不明になっているがまだ生きているかもしれないから黙祷をしない人もいる、というのを聞いて、この「葬送」を弾くのは不謹慎とも思ってしまいました。

なので、この「葬送」を弾くかどうかはニューヨークに着いてから決めようと思っていました。飛行機の中で元気の出る映画をいくつか見て、ニューヨークに着けば着くで、何不自由ない普通の生活が送れるので、大丈夫かも、とも思ったが、やはりピアノの前に行くと、身体がどうしても弾かせてくれません(泣)。

T.Roosevelt%20Birthplace_resize.jpgコンサートの主催者側は私の気持ちを尊重して下さり、おまけに「プログラムが全体的にに長過ぎると思っていたので、ちょうど良かった」とも云って下さったので、ので、最終的には「葬送」は今回弾かない事にしました。

自分の中でのもう一つの変更が最後のアンコールでした。リサイタルの時はいつも自分で話す事は全くしないのだが、やはり今回はどうしても日本から来た身として話をしたかった。プログラムを全部弾き終わってから、少し話させて頂きましたが、やはり地震の話をするだけで何ともいえない感情が沸き上がってしまうので、音楽を弾く状態ではなくなってしまいました。なので、今回はアンコールはなしでした。

私はいつも自分の結婚式で弾いている友人がとても不思議でした。嬉しい席だが、それにしても感情的になっている場でよく弾けるな〜といつも感心していました。
そして、究極と思っているのが、ダイアナ妃のお葬式。あの時にダイアナ妃のとても親しい友人だったというエルトン・ジョンが「Candle in the Wind」というのをその場で歌っていたが、あれがどうにも信じられない。プロ意識の違いなのかもしれないが、自分の友人が亡くなったら私はきっと何も出来なくなってしまうと思う。今回の地震で身近な人が亡くなった訳ではないが、ニューヨークのコンサートに色々と影響が出たのは確か。嘘偽りないコンサートになったとは思うので、悔いはないが...。

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